2017年3月20日月曜日

断じて女ではござらぬ

 今川氏真は、桶狭間の合戦で戦死した今川義元の息子です。
 覇気もなく勇気もなかったから今川家は衰退の一途でしたが、そんな中にあって剛の者が二人だけ居ました。
 城戸助之允と牧孫左衛門です。

 まず、城戸助之允。
 彼の合戦での働きぶりは目覚ましく、助之允が被っている桔梗紋の兜は「今川の桔梗笠」として敵味方に知れ渡っていました。
 桔梗笠が往くだけで、その武威に圧倒されて自然に周囲に輪が広がるほどでした。

 一方、牧孫左衛門は、同じ剛の者でしたが、助之允ほどの派手さはなく没しました。
 この孫左衛門に宗治郎という息子が居ました。

 宗治郎は、孫左衛門の家督を継ぎましたが、何しろまだ13歳です。
 それに幼くして病に罹ったこともあって、体付きは弱々しく、少女の様でした。
 しかし意気軒昂な若者でした。

 そんな時に今川家から徳川家討伐の布令が出ました。
 宗治郎は武者震いしました。

 (父の孫左衛門は亡くなっても、牧家は健在という意気を見せ付けてくれる)

 そう思い奮い立ったのですが、何しろ誰が見ても少女の様な体付きです。

 (このまま出陣したのでは、敵にも味方にも馬鹿にされてしまう)

 そう思った宗治郎は、思い切って「桔梗笠」の助之允を訪ねました。
 そして助之允に必死の思いで桔梗笠を貸してくれるように頼みました。
 桔梗笠を被って出陣すれば敵は驚き、宗治郎は戦功をあげて牧家の名をあげることが出来ると考えたからです。

 助之允は、この宗治郎の意気を買って兜を貸しました。
 そして今川家と徳川家との戦いが始まりました。
 宗治郎は、ひ弱な身体に重々しい「桔梗笠」を被って出陣しました。
 しかし出陣した途端、腰を抜かすほど驚きました。
 敵の徳川方から乗馬で槍をかざし、猛然と自分へ突き進んでくる巨躯の荒武者がいたのです。
 見れば徳川の「鹿の角」です。
 徳川家の猛者中の猛者、本多忠勝です。

 その持っている槍は研ぎ澄まされていて、余りの鋭さにトンボが止まった途端、二つに斬れてしまったという「蜻蛉斬」の伝説を持つ本多忠勝です。
 その忠勝が目敏く桔梗笠を見付けて猛進して来たのです。
 勝負になるわけがありません。

 宗治郎は竦み上がりました。
 しかし、このままでは突き殺されてしまいます。
 家名をあげるどころではありません。
 そう思って必死の構えをしましたが、その槍は忠勝に簡単に弾き飛ばれてしまいました。
 それだけではありません。
 情けなくも落馬し、その顔の上に、ドンとばかりに重々しく桔梗笠がのし掛かって来ました。

 (もう駄目だ。忠勝に首を取られる)

 そう思った時でした。
 宗治郎に馬乗りになり、刀を振りかざして、今まさに首を掻こうとした忠勝が、宗治郎を覗き込んで言いました。

 「何だ、お前は。なにゆえ女が桔梗笠を被っておる」

 この忠勝の言葉を聞いて宗治郎は、初めて体中の血が逆巻くのを感じ、こう言いました。

 「我は牧孫左衛門の一子、宗治郎と申す。我は憎き徳川を討とうとして参陣した。兜はその思いの余り借りてきたもの。が、もはやこれまで。首を取られるのは仕方ない。しかし最後に言っておく。我は女ではござらぬ。断じて女ではござらぬ」

 これを聞いて忠勝は、
 「なれば……」
 と言って刀を振り下ろしました。

 刀は砂地に突き刺さっていました。
 忠勝は、それを引き抜くと黙って立ち上がり、戦塵に消えて行きました。
 忠勝は、宗治郎を逃がすのではなく、渾身の力を込めて宗治郎と「勝負」したのです。

 この後、今川家は滅亡し、その数年後。
 本多忠勝の屋敷の門を叩く筋骨たくましい偉丈夫が居ました。
 身体を鍛え見違えるほどになったその男が、武士として「勝負」してくれた忠勝の男気に打たれ、家臣にと願い訪ねてきた宗治郎であったことは、言うまでもありません。

 以後、宗治郎は忠勝から最も信頼される家臣として活躍しました。